相続で大切にしたい、
「次の世代へ想いを託す」ということ
私は二十歳くらいから関わり続けているので、もうかれこれ30年近くになります。今年で50歳になる自分にとっては、人生の半分以上関わってきた行事、ということになるのかもしれません。
ただ、今年は少し勝手が違いました。首の手術の影響で、宿の留守番役に回ることにしたのです。
留守番している宿で、遠くで深夜に鳴り響く大太鼓の音を聞きながら
宿にいると、遠くから大太鼓の音が聞こえてきます。
その音を聞いているうちに、ふと、祭りに参加するよりもっと前——小学生の頃の記憶が蘇ってきました。大人4人がかりで打ち鳴らす大太鼓の、あの地面から突き上げてくるような迫力。子どもだった自分が、少し怖いような、でも目が離せないような気持ちで見ていた、あの光景です。
不思議なもので、自分が一歩引いた場所にいると、これまで見えていなかったものが見えてくる気がします。
たとえば、親子3代で祭りに参加している家族が、思っていた以上に多いこと。おじいさんが若い頃に担いでいたであろう役割を、今は息子さんが担い、その脇で孫がまた同じ景色を見ている。文化や習慣というものが、こうやって静かに受け継がれていくのだな、と改めて感じました。
何度も読んだ要項に、見落としていた一行があった
そんなことを考えながら、今年もらった実施要項を、なんとなく眺めていました。
毎年同じように発行される、見慣れた冊子です。何度も目を通してきたはずでした。ところが、その表紙に「明和4年」と書かれているのに、今年初めて気がついたのです。
明和4年——西暦でいうと1767年。今から250年以上も前です。江戸時代の半ば、この祭りはもう始まっていた、ということになります。
正直、自分でも驚きました。100年以上続く祭りとは聞いていましたが、なんと、250年以上だったとは。そして、何度も手にしてきた要項なのに、その一行をずっと見落としていた自分にも驚きました。
250年前、この地域の人たちは、どんな暮らしをしていたのだろう。どんな想いで、この祭りを始めたのだろう。そんなことを、留守番をしながらぼんやり想像していました。
250年続いたものには、「続く理由」があるのかもしれない
考えてみると、250年というのは途方もない時間です。その間には、戦争もあったでしょうし、災害も、飢饉も、時代の大きな変化も、何度もあったはずです。それでも祭りは途絶えなかった。
なぜ続いたのか。ひとりの偉い人がいたから、ではない気がします。その人が亡くなれば終わってしまいますから。
続いたのは、たぶん「特別な誰か」ではなく、代が替わっても受け継がれていく“何か”があったからではないか。私はそんなふうに感じています。
「この祭りを絶やしたくない」という想い。
「こういうふうにやるものだ」というあり方や作法。
毎年当たり前のように繰り返される習慣。
この3つが、代から代へと手渡されてきたからではないか、と感じています。
実際、少子高齢化の波は、この祭りにも確実に押し寄せています。若い参加者は減り、今は40代から上の年代が実務を支えているのが正直なところです。それでも、20代の若い子たちが、多数派の年配者に負けじと果敢に飛び込んでくる姿があって、留守番をしながら、思わず応援したい気持ちになりました。
そして何より印象的だったのは、親と子が一緒に参加し、家庭の中できちんとルールや作法が受け継がれている光景でした。「これがあるから、250年も続いてきたのかもしれない」と、素直に思えたのです。
これは、相続の話とよく似ている気がします
ここまで書いてきて、これは相続の話とそっくりだな、と感じています。
大家業でも、ご家庭の資産でも、「続く家」と「続かない家」があります。
財産をたくさん遺したから続く、というわけではないようです。むしろ、大きな財産があったのに、3代でバラバラになってしまう——そういうケースを、私は現場で何度も見てきました。
一方で、決して派手ではなくても、想いとあり方がきちんと受け継がれている家は、しなやかに続いていくように感じています。
この「2代で失う家」と「100年続く家」の違いについては、以前に一本の記事にまとめたことがあります。今回の祭りの話と根っこでつながっているので、よろしければ合わせて読んでみていただけたらうれしいです。
「想い」は、形にしないと受け継がれない
ただ、ここで難しいのは、想いというのは、そのままでは伝わらない、ということかもしれません。
「言わなくても分かってくれるだろう」——そう思っているうちに、伝える機会を逃してしまう。これは相続の場面で、本当によく起きることのように感じています。
祭りが250年続いたのは、想いを「作法」や「習慣」という目に見える形にして手渡してきたからではないでしょうか。だとすれば、家の相続でも、想いを何らかの形にしておくことが、続いていくかどうかの分かれ目になるのかもしれません。
その形のひとつが、遺言や、家としてのあり方の言語化なのだと思います。
遺言書を書いてみて、気づいたこと
実は私自身、直筆の遺言書を作成しています。
書いてみて感じたのは、これは「財産の分け方を決める作業」であると同時に、「自分の考えを、自分自身で研ぎ澄ます作業」でもあるということでした。
頭の中でぼんやり思っているだけのときは、想いというのは案外あいまいなものです。ところが、人に伝えるために文章にしようとすると、「自分は本当は何を大事にしたいのか」を、ごまかさずに向き合わなければなりません。物事と想いを、きちんと整理して纏めなければ、文字にはできないのです。
その作業は、正直、簡単ではありませんでした。けれど、書き終えたときには、自分の中の大事なものが少しくっきりした気がしています。
節税や制度の話も、もちろん大切だと思います。ただ、その前に「自分は何を遺したいのか」という本質の部分こそ、いちばん時間をかけて考える価値があるのではないか——そんなことを、この記事でお伝えできたらと思っています。この「本質」の話は、別の記事でも触れています。
想いは、形にして初めて次の世代へ手渡される。
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